Do you have your own dream? : 橋本通代インタビュー

スノーボードを始めて楽しく友人と滑りながら若い時代を楽しんでいる時に、キッズレッスンを見てもなかなか心に残り、思い出す若いスノーボーダーは少ないはず。しかし彼氏や彼女ができ、家庭を持ち、子供ができた時、もし子供にもスノーボードをやらせたいと思えば、思った以上にキッズレッスンやスクールが少ない事に気がつくはずだ。そしてレッスンの充実度をしっかりと突き詰めている所になると、なおさら少ないのではないだろうか。

今回は子供達にスノーボードを通じて子供達が楽しい事を自発的に頑張れる力を育てる事に力を注いでいるKIRARA KAMPを始めた、オリンピック出場経験のある橋本通代にオリンピックの事、そしてKIRARA KAMPの事を聞く事ができた。

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1)2002年のソルトレイクオリンピックに出場された橋本さんですが、そこに辿り着くまでの道のり、経歴を教えて頂けますか?

19歳でスキーを始め、スキーが大好きになり、スキーで有名になることを決めて、大学卒業後からお金を貯めて、24歳の時にワーキングホリデービザを取得し、単身カナダのウィスラーに行きました。
エクストリームの大会に出場して有名になってやろう!と思って行ったんですが、周りの環境もあって、スキーは現地で3日間しかやらずにスノーボードに転向したんです。その時に、24歳でスノーボードに転向するなら世界に通用するライダーになるって先に目標を立てました。

スキーでは基礎スキーとモーグルをしていたので、ジャンプも好きだったのですが、スキーでのジャンプは怖かったんです。でもスノーボードのジャンプはスキーよりも簡単に感じましたし、以前もスノーボーダーの友達と一緒に滑ることも多かったので何となくイメージがついていた感じでした。スノーボードに転向して、好きなジャンプがたくさんできることが嬉しかったです。

またスキーヤーのころ、日本で私が感じたのは上手くなってから大会に出る、上手くなってから海外に行く、上手くなってからジャンプにチャレンジという流れが多かったと思うのですが、海外の人達は滑れるようになったら誰でもパイプでもパークでもチャレンジするのが普通で、スキーヤーでもボーゲンしている人がジャンプにトライしている事も多く、そのような雰囲気が自分にはピッタリだったので、3週間でターンとかフェイキーを独学で習得して3週間後にはパイプに入ってちょっとリップを出れるようになりました。
その時にウィスラーに滞在していたスノーボードのプロの方に「今でも地区大会でそこそこいけるんじゃない?」と言われて半信半疑でしたが、世界で通用するライダーになりたいと思っていたので、これはいけるかもと思いました(笑)

24歳からの転向で時間もないと思っていたので、日本食レストランの皿洗いの仕事をしながら3ヶ月ぐらい休まず滑って、3か月後には、現地ウィスラーのパイプの草大会に出て3週連続3位になって、その年の夏にはアップカマーとして当時あったSnowingという雑誌に紹介してもらって、その年の終わりにBurtonがスポンサーについたりして、なんとなく手応えバツグン、というような一年目でした。
多分ウィスラーという大きな山でとにかくスピードを出しながらのスノーボードをしていたので、パイプでのスピードにすぐに対応できたのではないかと思いますね。やっぱりパイプの壁に突っ込むスピードによって高さが変わるので、そのスピードが怖くない、という所が自分の利点だったのではないかと思います。

2年目は、世界の舞台に立つにはプロ資格をとらないと、という事になり、日本で滑りながら大会に出る事にして岩岳スノーボードスクールでインストラクターとして入り、そこで自分が下手だということがわかり、パイプもパークもやらずにカービングターンやこぶ斜面やショートターンを練習して教わりながら基礎をしっかりと練習しました。でもまだ板に乗れてなくて、飛んではこけるという感じで、2年目には地区大会で結果を残すことができませんでした。

しかし3年目には板にしっかり乗る事ができ、飛んでもこけなくなり、プロ推薦で出たプロ選で優勝しプロ資格取得、FISの大会でも優勝して全日本でも3位に入ってナショナルチームに入る事ができました。

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She started snowboarding and already 2nd year, she was flying like this.


2)その時からすでにオリンピックも視野に入れていたんですか?

実はオリンピックはあまり頭に入っていなかったんですが、私のスノーボード歴2年目の時に長野オリンピックがあって、ナショナルチームに入ったのがオリンピックが終わった次の年で、次の編成にちょうど良い時期だったんです。

その時に日本の女子スノーボーダーで高さを出すライダーがいなかったので、それで入りやすかったのと、当時Xゲームとかを回るのが非常に大変でしたが、ナショナルチームはコーチも帯同でしたし、金銭面やその他いろんな理由で逆にオリンピックに標準を合わせやすかったという形ですね。あとは当時の岩岳スノーボードスクールに長野県スキー連盟の競技委員をされていた人が居たのでどのように動けばいいのか、何が近道なのかというアドバイスを頂けたのも大きかったです。

3)実際にオリンピックに出場してみてどうでしたか?

本当に最高にキラキラした一日でした。本当はメダルを取ることを一番の目標にするべきだったのですが、私の中では、自分の滑りで人の心を動かしたいって言う気持ちが一番大きかったです。インタビューにはもちろん「メダル」と答えていましたが、人の心や残像に残りたいって思っていました。

会場自体にもたくさんの人が居ましたが、テレビを通じて9億人の人達に見てもらえるっていうことも自分の気持ちを高めてくれました。そして会場の熱気もやはり凄かったです。今まで味わった事が無い熱気で、それだけでテンションがかなり上がって、当時仲が良かったBurtonのシャノン・ダンと会場で話してて、彼女が「オリンピックは世界平和よ。どんなに戦争や色んなことがあっても、同じ競技に対してピュアな気持ちで一つになって頑張ってるから、私達もピースをここで発信しよう」と言われて二人で笑顔でいました。

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She had enjoyed Olympic. 

4)オリンピックというイベントが終わって、その後何か新しい目標等がありましたか?

もともとオリンピックが最終目標ではなかったんですが、たまたまそこに標準があって、オリンピックの後は何も見えていませんでした。世界に通用するライダーという目標が何となく達成されてしまったのではないかと思います。たったの12位という結果だったのに。
あと間違えていたのが寄付金を頂いた人や手伝ってくれた人に「恩返しをしなきゃ」って思って、オリンピック直後からお礼回りばっかりしていたんです。

本当は結果を残して成績で恩返しするべきなのに、本当にバカでした・・。そうしたら心が完全に乾いてしまった感覚があって、“オリンピック”の〝オ“を聞くのもつらくなり、人と話しても笑えなくなり、毎日泣いてばかりいました。これは普通じゃないと思い、スポーツドクターを受診したら、燃え尽き症候群だろうと診断でした。スノーボードをはじめて6年でのオリンピック。自分だけの夢が、あっという間にたくさんの人の夢になり、つっぱしり過ぎたのだと思います。

ですので心に栄養をと思い、大好きなウィスラーに逃げるように旅出ちました。それから数ヶ月滑らずにいて、ハイカスケードキャンプの仕事があったので行った所、まだやっぱり万全じゃなくて、「怪我したい」とふと思ってしまった所、本当に20mのキッカーでバランスを崩して首から落ちて、気づいて起き上がろうと思ったら右半身がなくなった感覚で麻痺、しばらくして動いたけれど、両手に痛風のような痛みがあり救急車で運ばれました。
日本の病院に行ったら本当に後ちょっとのところで全身麻痺になる所だったという事で、頸椎椎間板ヘルニアの大手術を受けました。でも心と体がストップしたことで、スノーボードの悩みが一気になくなり、とても満たされた心と体で、しっかりと自分を見つめて思いついたのが今のKIRARA KAMPです。

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After competing Olympic, She find her lifestyle.


5)KIRARA KAMPについての活動を教えて下さい。

KIRARA KAMPも今年で12年になります。KIRARA KAMPはもともと私が中学生の時に、キラキラ生きたいと思い出したのが始まりです。自分をしっかりと見つめて、失敗してもいいから、自分が大好きと思えるものに一生懸命にキラキラと生きたいと考えていました。

オリンピックが終わって次に見えた夢は、“大好きな子供達にも一生懸命、キラキラと生きてほしい、そのお手伝いをしたい“と考えて、KIRARA KAMPをはじめました。なので選手育成というのが目標という事ではなくてどちらかというとスノーボードというツールを使って、子供達と関わりながら一生懸命何かに取り組む事を教えられたらいいな、という考えで、アメリカの北米キャンプが自分の中で良いイメージとなっていて、それだけで始めたんです。

でもはじめてみると、子供のスノーボーダーが少ないという事に気がついて、子供のスノーボーダーを増やすという草の根活動から始めました。広島に行ったり熊本に行ったり、Burtonやアルツ磐梯をはじめとするリゾートに協力してもらって無料レッスンなどの普及活動を行ないました。KIRARA KAMPでは、子供達が仲間と共に思いっきりスノーボードを楽しめよう、たくさんいろんな仕掛けを作るので、子どもたちは自発的に自然に頑張るようになるんだと思います。

そして仲間と楽しみながら頑張っているうちに完全に火がついて、次は発表の場が必要になったので大会を開催するようになり、もっと頑張りたい子供達に対してはまだまだ選手育成の場が少ない事から育成を始めて世界と繋げられるようにしたり、頑張ってる子どもたちを少しでも応援するためにキッズスノーボードMovieをつくったり、という様な流れで、最終的に一番最初から世界に羽ばたくまで、というようなプログラムが2007年頃にはある程度しっかりとできあがりました。

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She wants kids to have own dream and let them trying something whatever they want. 

6)最後に一言

スノーボードを楽しく滑り続ける事の秘訣の一つにギアを変えてみる、ということがあると思います。私は今までパーク系の板ばかり乗っていたんですが、今はフリーラン&パウダー系の板に乗り換えてみてとても新しい発見があり、また楽しく滑る事ができました。

あとは「教わる」という事も大事だと思います。無理してやればできる、とかではなく、やりたいことがあったら素直に聞いてみる事が大事だと思います。また友達と滑る事も楽しさをさらに大きくする大事な秘訣ですね。時々違うメンバーと滑る事も新しい発見があるはずです。プロの上手い人や子供達と滑ろうが、レベルが違ってもその場をみんなで楽しむ事ができるのがスノーボードの素晴しさだと思います。是非皆さんも試してみてくださいね!

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She find the other fun of snowboarding. yeah snowboarding is snowboarding.

子供スノーボードスクール、キッズレッスン、スキー場でも合宿ならキララキャンプ

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Interviewed and Edit by
Credit_Kazu