FREERUN “THE PROLOGUE”_episode-1
FREERUNがスタートしたのは1999年、それまでの専門誌でやってきた仕事の壁を越えるべく、新しい雑誌をつくろうと集まった仲間。道は思ったよりも遥かに険しかったけれど、ライバル雑誌がひとつひとつ姿を消す中、今もまだFREERUNは止まらない。17年という時を経て今も変わらないFREERUNのコア。大したものじゃないけれど、創刊当時の話を少しだけ紹介しよう。2部構成の前編は「創刊時に目指した方向〜メイン企画のSNOWBOARDER’S LIFE」について。問いに答えるのは初代編集長の杉浦隆行である。
Q. 「Freerun」は第4の専門誌(当時、SNOWSTYLE、SNOWing、TRANSWORLD既存の中の4誌目)として、1999年にスタートしましたが、その当時どのような雑誌作りを考えましたか?
大きく言えば、スノーボーディングが持つスポーツの部分と遊びの部分を融合したスノーボード雑誌、となります。けど、あまり他の雑誌内容のことは気にせず、とにかくオリジナルティを出そうと編集部内ではよく話していました。写真の見せ方から文字の書き方ひとつにしてもこだわりを持つようにと。ありきたりの企画はNG。国内外の取材もふつうに行けるところはNG。読者のことも考えるけど、まずは編集部が楽しいと思える企画かが重要でした。あきらかに読者受けしそうでも、他誌でも掲載しているような企画はあえてNGとしました。それと商品紹介もメーカー取材をおこなった上で掲載すると決めていました。
そんな感じで、創刊号の企画は今後のFreerunの方向性を示す上で、とても大切な号となることを意識して、強いこだわりを持って制作しました。それと、創刊号のFreerunを語る上で欠かせないのが当時のAD(アートディレクター)のetsuさんの功績です。彼女によってFreerunの表紙、誌面のデザインの方向性が決まり、読者やメーカーへの雑誌イメージの定着が出来たと思っています。
Q.巻頭企画で紹介した「TOYOTA BIG AIR」ってどんなイベントだったのですか?
この時代、世界中でビックエアコンテストが開催されていました。1994年にスタートしたオーストラリア・インスブルックの「AIR & STYLE」が本家本元で、日本国内でも「TOYOTA BIG AIR」も97年から北海道・札幌で。同年夏には東京・有明コロシアムで「J PHONE AIR MAKE」、98年秋に名古屋で「AIR RIDERS」が開催。今までおこなわれていた競技志向の強い大会とは異なり、花火を打ち上げ、夜店が並び、ノリの良い音楽と軽快なMCパフォーマンス、そして人気アーティストの生ライブがおこなわれるなど、コンテストとイベントが見事にミックスした新しいSNOWイベントのムーブメントは築き始めたのです。参加選手は日本人5人、海外選手11人の計16人。トリックも大きく進化し、高く遠く複雑に、そしてスタイルが強く求めらていました。テレビ放映(テレビCMや雑誌・ラジオ広告なども)もされ、優勝者には5万ドルと車1台が贈呈されるなど、スノーボードにあまり興味がない人でも、この「TOYOTA BIG AIR」は誰もが知るコンテストだったんです。
Q.メイン企画「SNOWBOARDER’S LIFE」の趣旨を教えてください?
プロスノーボーダーの肩書を持ちつつも、他のことにも類まれなる才能を持つ21人のライダーを人選し、彼らのライフスタイル、人間性をフォーカスした企画です。例えばプロスノーボーダーでありプロスケーター。プロスノーボーダーでありプロウェイクボーダー。他にも無類の音楽好き(DJ、ギター)やアート(絵)が上手なライダー。また、仲間と部屋を借りての日本(東北)ならび海外(アメリカ)の籠もり事情など、ふだん雪山では見ることのできない彼らの姿や、聞くことのできない考え方をあるゆるシーンから紹介しています。
episode-2では、今もなお続く、定番企画のお話などを公開>Go episode-2
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