代々木公園に雪が降る、そう聞いたのは数年前。当時、なぜ雪を降らせるのか非常に気になった結果、SNOWBANKというイベントの素晴しさを知る事になり、荒井 DAZE 善正となぜこのイベントを立ち上げる事になったのか、色々と聞きたい事が浮かんできた。
それから月日が経ち、とうとう彼のインタビューを取るチャンスに恵まれ、彼の想い、夢を語ってもらったインタビュー。みなさんも是非彼の想いを読んで、大きさに関係なくできる範囲で行動を起こして欲しいと思う。
1)ダゼ君は元プロスノーボーダーという経歴を持っていますが、どのようなスノーボードライフスタイルを過ごしていましたか?
初めてスノーボードを履いたのは16歳の時によくたむろしていた船橋ららぽーとの近くにあったスキードームザウスでした。その時はサッカー少年だったので楽しいな~位だったんですけど、高校卒業後に一度就職してその頃にスッカリスノーボードの魅力にのめり込んだんです。
その頃見ていたのが初めてハマったVHSは「ぶっ飛び命」シリーズで「subject haakonsen」や「DECADE」などにも影響を受けましたがすべてを変えたのは忠君やアキさんや鎌田潤君や崇君やアンディさんが出ていたnuts filmの「REALPLAYER」でしたね。あのVHSを見て完全にスノーボードの魅力にハマり自分も向こう側の人間になりたいと想い19歳の時に会社を辞めてプロスノーボーダーを目指しました。
最初は上越国際スキー場に籠り、ワンボックスカーに石油ストーブ積んで上越国際スキー場駅の階段の下に停めて住んでました。おかげで1シーズン過ごして1人も友達が出来ずにシーズンが終わってからは晴海埠頭に車で住みながら働いてお金貯めてニュージーランドに行きました。
その時にたまたま國母カズとバックパッカーが一緒で仲良くなって「真駒内楽しいからおいでよ!」って 誘われてそれからは札幌に住みながら真駒内スキー場で毎年滑る様になったんです。それから数年間はハーフパイプやっていたんですけどカズや中井達の七人侍見ていたら今やるべき事はハーフパイプじゃないという気持ちになってジャンプ中心に滑る様になったんです。
その頃に松井克師さんに声掛けてもらって「ACTPICTURES」クルーとして活動をはじめました。それからは冬は北海道でほとんどの時間を過ごし、地形やジャンプを中心に撮影に明け暮れて夏はスイスやカムイ龍ヶ崎で滑っていました。その頃にスポンサーと契約出来る様になり「ACTPICTURES」の作品に何作か出たりする頃には雑誌やテレビも出させてもらえる様になりました。
19歳の頃に憧れたアンディさんや松井さんやメジャーさんや小松さん達と一緒に撮影して同じ作品に出演し創って行く作業は本当に嬉しかったです。本当にノリにノってましたね。まさに19歳の頃に思い描いていた事が現実になって行ったんです。
2)それから難病である「慢性活動性EBウイルス感染症」にかかってしまったと聞きしましたが
病気の兆候が現れはじめたのはまさにその頃でした。最初は夜になると熱が出ることが2~3週間続いたんです。それが数カ月に一度周期的にやって来てその度に首のリンパ線が凄く腫れたんです。それでも撮影や大会も詰まっていたので滑っていましたが、凄く疲れやすくなって手の震えも止まらなかったんです。撮影に行くと補助的なカメラをライダーで回し撮りしたりしてたんですけど俺が撮ると全て手ブレしててよく怒られました。その時は俺は撮るのがヘタなんだな~位にしか思わなかった笑
でも、状況は悪化して行く一方で気が付いたら脚が膝位まで麻痺していたんです。少しずつ進むと人って気がつかないんですね。その頃には足先はうまく動かなくなっていてライディングは酷い有り様でした。その頃にはうまく滑れないし何やっても上手く行かないし「自分のライダーとしての限界なのかな?」って思う様にもなっていました。正直「あと1シーズン過ごしたらもう辞めよう」とか考える位スノーボードがつまらなくなってました。
とりあえず脚だけでも何とかして最低限の滑りが出来る様にしようと最初は整形外科に通っていました。ただ、原因はわからずとにかく通ってリハビリしてました。もちろん良くなることはなく悪化して行き、ある日突然自宅で気を失ったんです。気が付いたら救急病院に運び込まれていました。その時はもう記憶が飛んでいて何が何だかわからなかった。実はその4日後位にアメリカに行く予定だったのにそれすら忘れていた位でした。
それからは原因を調べる為に大きな大学病院を渡り歩きました。約1年間入退院を繰り返しました。その間にも全身麻酔して右肺だけ空気抜いて潰して脇に穴開けて心臓の横のリンパを生検したりする検査や色々とハードな検査したけどなかなか原因がわかりませんでした。
お医者さんも俺もかなり煮詰まった頃に柏のがんセンター東病院にセカンドオピニオンを受けに行ったんです。そこでやっと病名がわかったんです。「慢性活動性EBウィルス感染症」だと。この病は日本人の90%以上の人が持つEBウィルスが異常増殖して臓器不全を起こし死に至る病と聞かされました。
本来自分の免疫力で抑えられて一生顔を出すことが無いウィルスが俺の場合増えてしまったんです。当日世界で2000例程しかありませんでした。このままでは数ヶ月間数年のうちに死ぬと。唯一治った例がある骨髄移植もこの病気に対しては成功率は30%と宣告されました。何故なるかもわからないし薬も治療法も確立されて居ない。正直どうしたら良いかわかりませんでした。
その頃の俺を救ってくれたのは当時の彼女(現在の奥さん)のチカラも大きかったけど当時やっていたBlogで繋がった全国のスノーボーダー達の応援でした。俺はdazeblogってBlogをやっていたんですがコメント欄に全国から熱いメッセージが毎日の様に届いたんです。「全国各地からこんなに応援されて居るのに俺は何を凹んでんだ?」って気持ちになりました。
それからはみんなの期待に応えて絶対病気に勝ってまたスノーボーダーとして復帰して雪山から動画や写真を通じて元気になったことを報告することが目標になりました。
3)難病に打ち勝つ為に非常に辛い思いをされたと思いますが、闘病中に感じた事は何でしょうか?
闘病中最初に直面したのが骨髄移植を受ける為のドナーがいなかったことです。骨髄移植には俺に骨髄液を提供してくれるドナーが必要です。骨髄って言うと骨ってイメージですけど実は骨では無くて血を作る細胞(造血幹細胞)のことを言うんです。骨の中に含まれる血液の様な細胞です。その細胞を注射器で抜き取って患者の身体に流し込みます。ただ、提供出来る人は究極に健康体で患者と骨髄の型がすべて一致している人に限られます。その型が一致する確率としては他人や親で数万分の一、兄弟で四分の一の確率で一致すると言われてます。
俺には兄が居たので検査したけど一致せず、その時に初めて「骨髄移植というスタート地点にすら立てずに俺は死ぬかも」っと思いました。その時に少し前向きに慣れたのは骨髄バンクの存在でした。全国各地でドナー登録してくれた中から探すことが出来たんです。勿論すぐに患者登録してドナーを探しました。すぐに数字で出るんですけど俺の骨髄の型と一致するドナーさんは全国に14人居ると言われたんです。正直その時は不安になりました。「14人って少なくない?」っと。思った通りでその中から提供出来るコンディションの人は居なかったんです。登録した時とは健康状態や生活環境や家族構成が変わり提供出来ない場合もあることをその時に知りました。その時に思ったのが「俺が生き残ったら絶対に変えてやる!骨髄移植を必要とする患者さんがドナー探したら100人、200人フルマッチのドナーさんが居るよって言われる社会に変えてやる!」と思いました。
そして俺は運良く半年後に骨髄の型はフルマッチでは無いけど提供してもらえるドナーさんを見つけれて骨髄移植を受けることが出来たんです。
4)闘病生活後にSNOWBANKというイベントを立ち上げたきっかけはありますか?
闘病中にいつか出てみたいと思っていた東京ドームで行なわれていたX-TRAILが無くなってしまったのでいつか東京でスノーボードを伝えるイベントをやりたいと思っていました。そして闘病後は自分を助けてくれた骨髄バンクのボランティア活動に力を入れる様になりました。
その時に感じたのが「骨髄バンク」と言えば言う程に必要としている若者が離れて行く事に気が付いた んです。それなら東京のど真ん中でスノーボードのイベントを開催して若者を集客して俺を通じて骨髄バンクの事を知ってもらってドナー登録してもらえればいいんじゃないか?って思ったんです。このイベントはスノーボードの格好良さや素晴らしさ、骨髄バンクの大切さを未来に「PAY IT FORWARD」=「伝えて行く」ことから「SNOW BANK PAY IT FORWARD」と名付けました。
更にこのイベントでは俺自身が全面に出て行く事で骨髄移植を受けてもこんなに元気になれる事をこ れから骨髄移植を受ける患者さんに知ってもらい勇気を持ってもらいたいと考えています。俺が闘病していた頃は骨髄移植を受けた後の良い情報がほとんどなかったので。俺を見てもらって勇気を持ってもらえたらと思って前に出て活動しています。
5)SNOWBANKを2011から続け、今年で4年目だと思いますが課題、次への目標はありますか?
今年で4年目を迎える「SNOW BANK PAY IT FORWARD」ですが4年間やってみて思ったのは集客の難しさや運営の苦労ですね。初めて開催した時は本当に素人がいきなりイベントやってしまった感じになってしまってたくさんの人に迷惑を掛けてしまいました。ただ今ではたくさんの協力者も増えて来て今年はスノーボード、スケートボード、音楽、アート、フルーツ、ワークショップが充実しています。
このSNOW BANKはまずは10年続けていつかは日本を代表するスノーボード、骨髄バンクフフェスにして行きたいと思っています。そしてこの活動を通じて骨髄移植を必要とする人すべてが骨髄移植というスタート地点に立てる世の中が作れたらと思っています。ただイベントを行なう実行予算集めには毎年苦労しています。
今現在は「READYFOR」などのクラウドファンディングを活用したり自分自身が後援して回って「雪主」(株主ならぬ雪の主になってもらうもの)を一口2000円から集めて実行予算に繋げています。この記事を見てくれている人も是非この活動に「READYFOR」の支援者や雪主になって参加してもらいたいです。
今年の開催は11月8日~9日10時~17時です。スノーボードはもちろん飲食出店や物販スペースも拡大して更にはフタバフルーツの協力もあり無料フルーツビュッフェの開催やメモリースケッチャーKIBOKOのアートテントプロジェクトも眼が離せません。そして「DAZEBAND」も!笑
今年も「STONP」「SCLOVER」「CANDY」「DIRTYPINP」などのクルーも参加予定なので是非遊びに来て下さい。
概要
日時:11月8日9時30分~18時
11月9日9時30分~17時
会場:代々木公園B地区イベント広場(野外音楽堂前広場)
来場予定ライダー:石川敦士、壁田竜一、國母和宏、工藤洸平、阿部佑麻、高尾翔馬、加賀大貴、河合徹子、畠山絵美、平岡暁史、田口勝朗その他
参加プロダクション:SCLOVER、STONP、DAITYPINP、MADDOG、CANDY、夷フィルム、YONEFILM
コンテンツ:飲食出店、物販、スノーボードコンテスト、キッズそりゲレンデ、スケートボードミニランプ、トランポリン(千葉KINGS)音楽ライブ、ワークショップ、スキー場早割チケット販売、献血、骨髄バンクドナー登録会、トークライブ、ライブペインティング、スライドショー(樋貝吉郎、ZIZO)、ティーザー試写会(10 years after: revisiting Greenland、Live Naturaly 5)等
協賛:会津高原スキー場、エピクロス、RIDEOUT SNOWBOARD WEAR、VOLCOM、DRAGON、丸沼高原スキー場、雪マジ19、HIMARAK、ALLIAN、LIBTECH、SIMS、FLUXBINDINGS、DEATHLABEL、Monster Energy、HOMESCHOOL
大会エントリー(締切り11月1日)
6)ダゼ君からみなさんに伝えたい事はありますか?
俺はスノーボードにたくさんの事を学んだし人間として成長させてもらえたと思っています。そしてそのスノーボードに命すら救われたと思っています。俺にとってスノーボードは最高の遊びであり最高の表現方法であり俺のLIFEだと思っています。きっと俺は死ぬまでスノーボードに乗り続けるんだろうな~っと思います。
俺はスノーボードを通じて「思い描ける事は実現出来る」ことを学んだ気がします。この記事を読んでくれているみんなも是非「思い描く事」を大切にして一歩踏み出す勇気を持ってスノーボードLIFEを過ごして下さい。
プロフィール
荒井DAZE善正
1979年3月10日生まれ
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SIMS SNOWBOARDS
HIMARAK
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シゼントトモニイキルコト
北海道ウォール
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